2014tr-03 제사:祭祀

ハングル俳句-한글 번역 第3回 제사

金かかり 泣きたくなるよ チェサとやら(NO109)

돈 드니까 울고 싶어요 제사란 건

チェサが大変で、いやだという感じが最後の「とやら」に表れています。本人はおそらく祭祀の経験はないと思いますが、説明を聞いただけで大変だと思ったのでしょう。

祭祀にどのくらいのお金がかかるのでしょうか。祭祀用の食べ物は本来自分の家で心を込めて作るものとされていますが、忙しい現代社会ではなかなか全ての料理を自宅で準備することができない事情もあります。

35万ウォンのものが以下のサイトに紹介されています。

http://cheonjiwon.com/

食べ物が一般に決められている位置とは違うところに置かれているサイトも少なくありません。

A: http://cafe.daum.net/hansolbabo/HxlC/133?docid=pa4V|HxlC|133|20130722021803

B: http://cafe.daum.net/mtkoi55/MDdl/187?docid=1OANQ|MDdl|187|20120706134827

A、Bともに準備中のもののようですが、いろいろ違ったところがあります。

お金がかかるからと言って、祭祀をしないわけにもいきません。お金だけでなく準備も大変です。祭祀をやめたい、あるいは回数を減らしたいと思っている人もいるようですが、この句のようにストレートに表現することは難しいものです。

プロテスタントの家庭では教会では祭祀に代わり祈祷会や追慕会をもつ場合も多いのですが、悩んでいる人もいます。

「제사 기독교」という語で検索をするとこの辺りの事情を知ることができます。

「金かかり泣きたくなるよチェサとやら」の「金かかり」だと、お金がかかることだけが理由になりますので、ここは曖昧に「힘들다」、「泣きたくなる」は「죽겠다」を使って訳してみます。

「땜에」は「때문에(~のために)」の縮約形です。

힘들어요 정말 죽겠네 제사 땜에

大変だ泣きたくなるよチェサとやら

大集合 明日はチェサだ 嫁急ぐ(NO120)

다 모여서 내일은 제삿날 며느리 바빠

祭祀の日にはみんなが集まるので、大集合は削除しましょう。祭祀の日は「제삿날」といいますが、略して「젯날」ともいいます。

내일 젯날 며느리 마음만 너무 급해

あすはチェサ嫁は気ばかり急いている

2014tr-02 불고기:プルコギ

ハングル俳句2014-02翻訳 불고기

 

プルゴギはサンチュと食べると丁度いい (NO110)

 

불고기는 상추하고 먹으면 딱 좋다

불고기と「상추:チシャ」は相性が良いようです。「딱 좋다」というのは「ぴったり」といった感じの表現です。

相性という意味で「궁합[宮合]:クンハプ」という語もよく使われます。本来は結婚の時の男女の相性を指す言葉ですが、食べ物の相性の良し悪しを言う場合にも使われます。

特に相性のよいものは「황금 궁합:黄金の相性」、「환상 궁합:幻想相性」などといいます。불고기はサンチュで包んで食べますが、これを「상추쌈:サンチュサム」といいます。

불고기에 상추쌈이야말로 황금 궁합

焼肉にサンチュサムこそ黄金コンビ

この原句の「丁度いい」という言い切りの表現は「過不足のなさ」を明言しており、ここにこの句の良さがあります。김치で包むも良し、깻잎(エゴマの葉)で包むも良し、ごま油や味噌を付けて食べるも良しという中で、やはりサンチュがぴったりだと言っています。

더도 말고 덜도 말고 늘 가윗날만 같아라

という諺を思い起こさせます。これ以上でも、これ以下でもなく、いつも「秋夕の日のように」と願っています。

韓国の国立国語院の標準国語大辞典には次の説明があります。

가윗날은 백곡이 익는 계절인 만큼 모든 것이 풍성하고 즐거운 놀이를 하며 지낸데서, 잘 먹고 잘 입고 편히 살기를 바라는 말.
秋夕(陰暦8月15日)の日はあらゆる穀物が実る季節であり、すべてのものがふんだんにあり、楽しい遊びをして過ごすことから、ひもじい思いをせず、きれいな服を着て楽な暮らしができることを望む言葉

ここでは「더도 말고 덜도 말고(これ以上でも以下でもなく)」といいながら実はこれ以上ない暮らしを望んでいるのですが、それだけ日々の生活が苦しかった表れでもあります。

「サンチュと食べると丁度いい」はこうした高い希望を述べている訳ではありません。「丁度いい」という最後の部分の味をだすのは難しいのですが、「좋다」を繰り返せば「丁度いい」の言い切りの部分の「いい」の感じを出すことはできそうです。

불고기엔 상추쌈이 좋다 딱 좋다

雰囲気でこれを日本語にすると「焼肉にはサンチュサムね、どんぴしゃ」といった感じです。話し言葉では「불고기는 상추가 있어야 맛이 있지」というところでしょう。「焼肉にはサンチュがなければ美味しくない」と訳すのか「焼肉にはサンチュがあるからこそおいしい」と訳すのかは別として、サンチュとの相性の良さをいっています。

相性の良い食べ物に「단짝:大の仲良し」という語が使われることがあります。「단짝 음식:親友飲食」に対して、悪い食べ合わせの場合は「상극 음식:相剋飲食」といいます。「상극:相剋(そうこく)」とはもともと五行説から来た言葉で、ここでは「大の不仲」といった意味合いです。

さて、「단짝」を使って「丁度いい」という言い切りの部分を「상추쌈」と名詞止めにして訳してみると、こんな感じになります。

불고기의 단짝 하면 역시 상추쌈

焼肉の友はやっぱりサンチュサム

2014tr-01 김치:キムチ

ハングル俳句2014-01翻訳 김치

冬将軍キムチ引っさげやってきた(NO101)

동장군님 김치 등에 업고 날아왔네

「冬将軍」は「동장군」といいますが、ここでは「님」を付けてあります。「引っさげる」の語感が「손에 들고:手に持って」では出せませんので、原義からはやや離れるのですが、背負ってと意訳してあります。「やってきた」は訳では「飛んできた」としてあります。

「冬将軍キムチ背負って飛んで来た」という意味になってつまらない句になってしまいました。直訳すると、よい感じが出ません。何か工夫が必要となります。

原句のピーンと張った緊張感はなかなか出ませんが、少し工夫してみたのが以下の句です。

동장군님 김치 등에 업고 오셨나이다

冬将軍キムチ背負ってお出ましだ

「오셨나이다」の「나이다」は尊敬を表す文語体で「오셨습니다」よりも敬語の度合いがはるかに強い感じがします。

キムチ食べ乳酸菌とり腸快調 (NO119)

김치 먹고 유산균 섭취하니 장이 쾌조

「乳酸菌」は「유산균」といいます。「섭취하니」は「섭취하니까:摂るので」の意。「腸快調」を「超快調」に掛けたのがこの句のポイントなので、ここをどう訳すかが問題です。 「장이 쾌조」ではよく分かりませんし、「장에 좋아」では「腸に良い」という説明になってしまっています。

少し工夫してみたのが次の句です。

김치 좋네 장에는 유산균 참 장하네

キムチ良し腸には乳酸菌超良ろし

「장하다」は「すばらしい、見事だ、あっぱれだ」などの訳が付いている語です。褒めるときに「장하다 장해:よくやった、立派だ」などとよく使います。「좋네」の「네」と「장하네」の「네」、「장에는」の「장」と「장하네」の「장」の韻を重ねてみました。

ハングル俳句の翻訳シリーズにご期待ください。

2013-20 진달래:ツツジ

第20回 チンダルレ:진달래(ツツジ)

ツツジの花を「진달래 꽃」といいます。金素月の詩の「나 보기가 역겨워」で始まる「진달래 꽃」は韓国で最も愛されている詩といっていいでしょう。

お別れを するとき진달래 置いてみる(NO110)

「진달래 꽃」の詩の中にあるようにツツジを別れのしるしとして置いてみることを考えたのでしょう。詩のように道に撒くのか、それとも窓辺かどこか別のところにに置くのでしょうか。

진달래咲き トッキョキョカキョク ホトトギス(NO112)

ツツジといえばホトトギスです。ホトトギスは「テッペンカケタカ」と聞こえるとされてきましたが、下のサイトのように確かに「特許許可局」と聞こえます。

http://www.youtube.com/watch?v=2F_KfMB5lOs

「ホトトギス」は漢字では「子規、時鳥、不如帰、蜀魂、杜鵑、杜宇」などいろいろに書かれます。「ホトトギス」は正岡子規主宰の俳句雑誌、「不如帰」は徳冨蘆花の小説です。「杜鵑花(とけんか)」を辞書で調べてみましょう。

道端で 진달래見るたび 立ち止まる(NO111)

「ツツジ」は「躑躅」と書くのが普通です。この漢字の音読みをまず調べて、その読みで辞書で引いてみると、この句の意図が分かります。足踏みをして少し立ち止まることも人生には必要なのでしょう。以下の類句があります。

たたずんだ 先には진달래が 咲いている(NO108)

어렸을 때 진달래 꽃을 맛보았네(NO121)

これはハングルで書かれた句です。「幼き日ツツジの蜜を吸ってたっけ」といった感じでしょうか。それほど甘いわけではありませんが、吸い始めるとなかなか止められません。子供の頃が思い出される句です。これと似た句があります。

진달래の 蜜吸い想う 幼き日(NO124)

진달래の蜜  おやつのかわりに いただきます(NO119)

こんな句も

진달래見て 故郷の山 思い泣く(NO129)

石川啄木の「ふるさとの山はありがたきかな」を思い出させます。ツツジは桜よりも先に、連翹(れんぎょう)はツツジよりも先に咲くようですが、最近はこの順序が壊れているとも言います。楽しい時にも故郷を思い出しましょう。

2013-19 허공:虚空

第19回 ホコン:허공(虚空)

金素月の「초혼:招魂」という詩に「허공:虚空」という語が使われています。この「虚空」は広辞苑によると「何もない空間。そら。

仏典では、一切の事物を包容してその存在を妨げないことが特性とされる」と説明しています。

叫んでも 虚空に散る この悲しみ(NO126)

金素月の詩「초혼:招魂」の「虚空中에 헤어진 이름이어!」(虚空の中に散りし名よ!)を踏まえた句です。

「불러도 主人 없는 이름이어!」(呼べど主なき名よ!)、「부르다가 내가 죽을 이름이어!」(我果てるまで叫ぶ名よ!)と続きます。詩の中で詠われた愛する人を失った悲しみを再確認する句となっています。

虚空へと 手を伸ばしたら 掴まれた(NO103)

「虚空を掴[つか]む」という言葉があります。広辞苑では「手を上にのばして指を固く握りしめる。死ぬ間際の苦しみの様子などにいう」とあります。

この句では虚空を掴むはずの手が逆に「掴まれた」とあります。さぞ驚いたことでしょうが、救いの手だったのかもしれません。

あの人を 会えない時間は 心が虚空(NO121)

「あの人に」ではなく「あの人を」と言うのは最近の言い方なのでしょうか。あるいは「あの人を思う」という気持ちのままの状態で「会えない」に続くからでしょうか。

いずれにしても、思う人のいない心の空虚さを詠っています。青春の一ページを埋めるには必要な「虚空」のようです。

あなたとは 虚空の時間 過ごしたわ(NO129)

ここの「虚空の時間」は「時空」のことを言っているのでしょう。「ああ、無駄だった」と叫んでいるような気もしますが、それは後になってから分かったことです。

宇宙論では真空の中に暗黒物質が充満しているという考え方もあるようですから、一緒に過ごしている間は虚空の中にいろいろなものが詰まっていたのかもしれません。

こんな句も

虚空など 僕は使わん 言葉だぞ(NO109)

「虚空」という言葉を使わないことを言っているのではなく、自分の青春にはこういった言葉を使っている暇なんかないんだと主張している歌のようです。

前向きで、休むことなく、行くべき道をしっかり歩んでいる力強さが感じられる句です。

2013-18 밤마다:夜ごと、夜ごとに

第18回 パンマダ:밤마다(夜ごと、夜ごとに)

金素月の「만리성:万里城」という詩は「밤마다:夜ごと」で始まります。

夜毎に積んでは崩し、崩しては積むことを繰り返しているというものです。「シジフォスの神話」を思い起こさせます。

下の句はそれを踏まえて作った句です。

밤마다また まだまだ積んで 完成はまだ(NO102)

「밤마다」の「마다[マダ]」と「また」という音の繰り返しで、繰り返し積んだり壊したりしている様子を表している句です。最後の「完成はまだ」の「まだ」がよく効いています。

若いうちは思いや努力が報われないと思うことも多いでしょうし、将来の見通しが立たないまま、何かをしていなければならないこともあるでしょう。

下の2つも「만리성:万里城」の内容を詠った句です。

月は知る 밤마다変わり できぬ城(NO103)

努力して 밤마다運ぶが 崩された(NO130)

君想う 밤마다全て 忘れられない(NO115)

忘れられない君を想う強い気持ちは若者の特権と言っていいかも知れません。「全て」というところに強さが際立っています。

うるさいぞ 밤마다の討論 眠れない(NO127)

若いうちでしかできない討論もあります。未来への希望を60歳、70歳という年を取ってから語るのはかなり難しいことです。

しかし、毎晩毎晩討論漬けでは疲れてしまいます。うるさいと思うこともあるでしょう。

自分が討論に参加しているときはあまりうるさいとは感じないものですが、隣で関心事でないことについてああでもないこうでもないという話を聞かされると「うるさいぞ」と思わずいいたいこともあります。

こんな句も

お腹減り 밤마다うろうろ 台所(NO119)

夜食がダイエットには一番悪いとよく言われます。お腹が空くと冷蔵庫を開けてみたり、ラーメンか何か残ってないかと台所をうろうろすることがあります。

この句の「うろうろ」を「울어 울어」と掛けて解釈すると別のおもしろい味わいのある句となります。

夜食を食べ過ぎるらしい次の句もありますが、こちらはまだまだ余裕がありそうです。

밤마다 밤마다 横幅だけが 育ってく(NO121)

2013-17 하늘:そら

第17回 ハヌル:하늘(そら)

変わり行く 하늘と私は 瓜二つ(NO125)

この句は私の「変わり行く」ところと、空の「変わり行く」ところが瓜二つなのだと言っています。「男心と秋の空」とか「女心と秋の空」と言われますが、このことを詠んでいるのでしょう。

心変わりを「瓜二つ」と喩えられた「瓜」も気の毒ですが、諺に 참외를 버리고 호박을 먹는다(マクワ瓜を捨ててカボチャを食べる)があります。これも心変わりといえば心変わりと言えるでしょう。

韓国国立国語院の『標準国語大辞典』に次のようにあります。

[1] 알뜰한 아내를 버리고 둔하고 못생긴 첩을 취함을 비유적으로 이르는 말.
如才なき妻を捨て愚鈍で不器量な妾を娶ることを比喩していう言葉
[2] 좋은 것을 버리고 나쁜 것을 취함을 비유적으로 이르는 말.
良いものを捨て、悪いものを取ることを比喩していう言葉

以下のサイトに「참외」と「호박」の写真と説明があります。

http://www.samna.co.kr/tlreks/tls121.htm

http://samna.co.kr/abcd/koa166.htm

ビルの合間 하늘からの 光りは届かない(NO102)

「合間」は「谷間」のことでしょう。高層ビルが立ち並ぶ都会ではなかなか大空を見ることが難しいようです。日照権が問題となるのも多くは高層建築物のためです。

この句の作者は太陽の光りのことだけではなく、人と人との関係でもこのようなことが起こりうることを暗示的に表現しているように感じられます。

하늘高く 紙飛行機が 舞い上がる(NO109)

「하늘高く」といえば「ひばり」や「凧」を思い浮かべます。ここでは「紙飛行機」が舞い上がっています。

紙飛行機を高く飛ばすには、折り紙の飛行機では無理なようです。しっかりした竹の枠に紙を張り、数メートルのゴムを動力にしたプロペラ付きの本格的なものが必要です。

自分の作った飛行機が空高く飛ぶのを見ることは何ともいえない喜びがあるものです。

こんな句も

하늘高く 飛び立つ鳥は 何処(いずこ)行く(NO111)

「하늘高く」飛び立つこの鳥は「ひばり」ではないようです。ひばりはほぼ真上に飛び上がります。

自分はどこに行くのかと鳥の行方に自己の姿を重ねているのでしょう。空は人を映し出す鏡なのかも知れません。

2013-16 바람:風

第16回 パラム:바람(風)

外出れば 四季折々の 바람이吹く(NO110)

風は季節の変化を 先取りしている節があります(第14回の初句を参照)。風は温度、湿気、強さ、方向、香りなどが時々刻々変わります。最近は黄沙や微細ゴミ(pm 2.5)、花粉なども運んできます。

今は暖房や冷房、空気清浄機などのある部屋にいると、季節感が分からなくなることもあります。この句のように四季折々の変化を知るにはやはり外に出るのが一番です。類句を一つ紹介します。

바람吹けば 変れる季節 感じけり(NO106)

夜一人 바람にさらされ 人恋し(NO129)

夜、独りで散歩にでも出かけたのでしょうか。来ぬ待ち人を待っていたのでしょうか。それはともかく、なにかと物騒な世の中ですので、こういう句を見ると心配になります。

この句は「바람にさらされ」たから「人恋し」というのではなく、風にさらされなくても「恋しい」思いは変わりないのだけれど、風に吹かれてその思いをより強くしたという内容のように思います。

바람立ちぬ いざ行かんとす この道を(NO103)

堀辰雄の『風立ちぬ』を思い出させます。この句では自分の進路を見据えて決意を新たにしています。自分に言い聞かせているようにも読めます。将来の目標に向かってしっかり歩んでほしいと思います。

以下のサイトに堀辰雄が引用して「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳した詩の全訳を見ることができます。ここでは、「風が起る!…生きてみなければならない!」と訳してあります。

http://rimbaud.kuniomonji.com/jp/etcetera/le_cimetiere_marin_jp.html

こんな句も

바람にのせ 思いもどうか 消し去って(NO119)

「どうか消し去って」ほしいと思うことはなかなか忘れられない記憶です。しかし、全く忘れてしまいことは無理のようです。

その無理なことを分かった上で、なお忘れたいという思いを起こさせるのが、今吹いている寒くて強い風なのでしょう。今年は太平洋側に低気圧が発達し、例年にない北風が身にしみます。

自分の方が飛んで行きたいという次の句も風が強いからでしょう。

遥か遠く 飛んで行きたい 바람と共に(NO114)

2013-15 그리움:いとしさ

第15回 クリウム:그리움(いとしさ)

그리움は いずれは過去へ 変わり行く(NO111)

「クリウム」という題目は金素月の「옛낯」というタイトルの詩から取ったものです。この詩の2行目に「그리움의 끝에는 잊음이 오나니,」という部分があります。この句はこの部分を訳したもののようです。

直訳すると「愛しさの終わりには忘れがくるから」となります。タイトルは「昔の顔」という意味ですが、昔の姿とも理解されているようです。ちなみに、初めて『東亜日報』(1921年6月8日)に発表されたときのタイトルでは「옛낫」と書かれています。

恋や愛の成り行きを達観した人とまだまだ悩み多い人とが出てきている詩ですが、人生のどの場面でこの詩と出会うかで、受け取り方はずいぶん違うようです。

그리움など 無くなってしまえば 楽なのに(NO125)

思いが募って、どうしようもなくなることがありますが、こんな時は忘れたくても忘れられません。忘れられれば「楽なのに」、そうはできないことを詠った句です。

思いが現在進行形の形です。上の句と比較すると、達観するのはまだまだ先のようです。

つぎの句も同じような気持ちを表しています。

会えなくて 그리움募る つらい日々(NO107)

그리움を 求め続けて 三千里(NO129)

「三千里」というのは距離のことだけを言っているのではなく、これまでの生きてきた時間のことも指しているのでしょう。

この句は「母をたずねて三千里」というテレビアニメを思い出させます。なにかを求め続ける若者の姿からは清清しさが感じられます。

그리움を 口に出したら 変わっていた(NO102)

「그리움」とは思うもので、口に出して言うものではないようです。「変わっていた」と落胆している姿が浮かびます。

その一言が言えない場合もあるし、言ったためにそんなはずではなかったということもあるし、恋とはなかなか難しいものです。

こんな句も

まんまるく 그리움いっぱい ハリネズミ(NO120)

「ハリネズミ」がどうして句に出てくるのか分かりませんでしたが、「ハリネズミのクリームパン」というのがあって、この「クリーム」を「그리움」に掛けたものだと知りました。

2013-14 나뭇잎:木の葉

第14回 ナムンニップ: 나뭇잎(木の葉)

「나뭇잎」は[나문닙:namun-nip]と発音します。「나무(木)+잎(葉)」で二つの言葉を「ㅅ」でつないだ語です。

秋来たと 나뭇잎の色で 感じけり(NO106)

『古今和歌集』にある藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」を思い出させる句です。「立秋」の日に撮った写真を下のサイトで見つけました。

木の葉のほうがはるかに季節をよく感じ取っているようです。

http://blog.goo.ne.jp/akagera63363556/e/88eb0a1127b157354b9cda088ab82610

http://mahoram.exblog.jp/20164694

나뭇잎散り 人肌恋し 冬来たる(NO116)

木の葉が散り、あっという間に冬になったようです。どことなく古風さを感じさせるのは自然の時の流れと人の心の流れがどこかで共鳴しているからなのでしょう。

『万葉集』には「木の葉」の歌が17首あるとのことです(次のサイト参照)。

http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/nature/konoha.html

나뭇잎舞う 緑を赤黄に 変えて散る(NO102)

木の葉の舞い落ちる様子を詠っていますが、葉の色が一瞬にして変わっていくように読める句です。自然の魔術を見ているような気がします。

「나뭇잎舞う」と「緑を赤黄に変えて」の部分の間(ま)の取り方がいいからでしょう。これは「間(ま)術」の句ともいえるでしょう。

나뭇잎落ち 色づいてゆく 秋の道(NO124)

木の葉で秋の道が次第に色づいていく様を詠んだ句です。次第に落ち葉で埋っていく道はジグゾーパズルのようでもあります。

銀杏の実がなる銀杏は雌の木で、雄の木よりも早く落葉するとのことです。銀杏の実の付いた木と、そうでない木を秋に比べてみてください。

こんな句も

カサカサと 나뭇잎が散って いく季節(NO101)

韓国語をかなり学んだ方への問題です。「가사」を「가다+사」と見て考えてみましょう。また違った句として読めます。